学舎

(旧)教員の方々から会報誌「みやま」に寄稿いただいたものを掲載しています。

お世話になった先生や思い出深い先生の寄稿をご希望の方は、事務局宛ご連絡ください。

高専の行く道 ― 思い出を通して ―

元都城高専教授 福岡女子大学名誉教授 疋田啓佑(国語・古典)

 

 高専の卒業生なら、多分知っていることと思いますが、 最近私は、青色発光ダイオードを開発した、中村修二という人の書いた 『考える力、やり抜く力、私の方法』(三笠書房)と言う本を読みましたが、 そこで非常に考えさせられるとともに、高専にいた頃の中原祐典(電気工学科、元教授)さんのことを思い出した。 私が都城高専に在職していたのは、昭和四十一年から平成元年三月でしたので、 高専を去ってもう十五年もの年が経っているので、ここで話題にしているのは もう一昔前という感じでしょう。その頃の高専は、いや大学でもそうだったと思いますが、 研究費が足りなかった。それで、こんな研究費ではロクな研究もできないと不満をかこっていました。 私のような文科系の人間とて同じでありましたが、当時の私は、研究費をあてにして それで研究するのではできるはずもないという考えで、必要な書物は無理してでも 自腹を切って買って研究するのが当たり前のことでした。 しかし工学系の人は、実験設備や装置だから、自腹を切って買えるような金額のものではない。 そこで嘆き節を歌うので終っていたのですが、そういう中で、いかにして安く装置を作り、 改造し、自分のできる範囲で、こつこつと研究に励んでいたのが中原さんだった。 彼はガラス細工や溶接などまでやっていたのを思い出しています。

 

 さて、青色発光ダイオードを開発した中村修二(現在はカリフォルニア大学)教授は、 徳島大学(院)から日亜化学工業という、地方の中小企業の会社に入社したので、少ない 研究開発費のため、すべて自分で装置を作り、改良して実験していった。 そのため機械に精通し、それを職人のような技術でもって、他の研究機関では考えられない ような改造をしながら、自分の信じる道をこつこつと努力し、その結果、多くの人達が 見放した窒素ガリウムで青色発光ダイオードを作り上げたのです。

 

 この本は、氏の生い立ちから、日亜化学工業で苦心しながらも開発する過程と、 その間の氏の考え方を描いたもので、私はこれを呼んで、非常に感動したのです。 そしてこの本を読んだとき、先に述べた中原さんがそこにダブッテ思い出されるとともに、 中原さんが、乏しい研究費で行っていた高専の実験の在り方と共通するものを見るとともに、 彼のもとで学んだ学生達は、その研究態度に多くのものを学んだに違いないと想像しています。

 

 科学はどの様に発展するか分からないから面白いのですが、 特に自然科学の発展には目を見張るものがあります。 それが人間にとって幸福をもたらすかどうかは分かりませんが、それでも当時のことから考えると、 隔世の感があります。その頃、機械工学科のMさんは、自分の担当は金属材料だから面白くない。 もう決まったものを教えるだけで、研究の発展性があまりないというようなことを言っていたが、 そのすぐ後にはアモルファス合金や、金属を離れたセラミックの方へと発展し、 またリニアモーターカーのような超伝導物質の研究が盛んとなっていった。

 

 しかし、何故か我が国の教育は、理科離れで苦しんでいる。 それは不況とはいえ、物は豊かにあり、幼い時から、自然に親しむことをしないで、 与えられた玩具や教材で育った子供には、なんとか工夫をして作り上げるというような 喜びを味わうことなど、できない話なのです。 その上、教える先生の方にも、そのような体験を積んでいない世代の人が多く なってきたようではなおのことです。

 

 現在、大学では、研究するだけでは機能を発揮しているとはいえないと言われ、 学生の教育についても力を入れることが求められているのです。 そしてそれを評価するため、学生による授業評価ということが義務づけられ、 実施されてもいるのです。

 

 そこで思い出すのですが、以前から高専でも教育や学生指導(補導なども含む)に 力を入れることが求められていました。 しかし教官の方は、自分の専門の研究をより深めたい、またそれがより可能な大学に 移りたいという気持ちで、必死で研究に励んでいました。 私もその一人でしたが、学生の指導に手を抜いたり、お座なりなことをしたつもりはないし、 そのためか二十三年もの間、高専の教育に携わったのです。 それでも、研究に力を入れている人は、学生の教育や指導が疎かになっていると 陰口を叩かれ、また面と向かって言われることもあったのです。 しかし私たちは、毎晩遅くまで、というより明け方まで研究室で勉強をしていました。 時々一時頃か二時頃に、また帰り道に寮などに寄って学生のなかで遅くまで勉強をしている学生の様子を見に行ったりして、教え子を心配したものです。

 

 先日、そのような遅くまで研究室で頑張った勉強仲間の一人芥川和雄(現在、静岡大学教授) さんから電話がありました。 そしてあの高専時代ほど勉強したことはなかったし、今の大学でも、あんなに熱心に情熱を燃やして研究に、教育に頑張っている人はいないように思うと言っていました。 彼は、私が東京の私大に移る数年前に、数学の講師として赴任して来たのですが、 よく遅くまで勉強するばかりでなく、数学の分からない学生を研究室に呼んで、 夜遅くまで教えていたのです。 研究する人こそよく教育もするという模範とすべき人でした。

 

 高専の教育の良さは、少人数教育にあります。 従って、教える教官と学ぶ学生との間に親密な関係ができ、 人間的な面で多くの影響を与えることがあると思います。 そういう面で、江戸時代の松下村塾や適塾などに流れている教育的精神に繋がるものがあります。

 

 昨今の大学のようにマンモス化して、教える側と学ぶ側との人間関係が希薄になっていくのを目の当たりにしながら、現在の高専での教育はどうなっているのだろうかと思い、 願わくは、たとえ教育内容が、科学的合理的なものであろうと、 教官と学生との間の人間関係の親密さを通じた教育が残っていて欲しいと願っているのです。

 

 【参考】  送別の辞(第5代校長 篠塚脩)

 

(みやま12号 2003年,平成158月より)

 

関東深山会の皆様へ

都城高専教務主事 高山義邦(数学科) 会報みやま5号(1997年)

 

 平成8年もあとわずかになりました。 関東深山会会員の皆様には、お元気でご活躍のことと思います。 事務局より、都城高専の現況をまとめて遅くとも15日までに 寄稿して欲しいというメールによる依頼を受け、 正確な取材をする間もなく原稿作成に取りかかりました。 都城高専は、ご承知のように平成6年に創立30周年を迎え、 多くの同窓生の皆さんにも参加頂いて盛大な記念行事を行いました。 118日には、 東北大学総長の西沢潤一先生による記念講演がありました。 (10周年時は、湯川秀樹博士、 20周年には天城 勲先生をお招きしました。 それぞれの節目に在学された方には思い出して頂けますでしょうか?)西沢先生は、 高専という学校の存在を高く評価され、 技術者を目指す学生ひとりひとりに向かって激励と数々のヒントを与えて下さいました。 そしていま、都城高専は皆さんが築いた多くのものを大切にしつつ着実に前進を続けています。 ここ数年のこととして、平成37月には 高専の設置基準が改正になり、平成4年度からは、 学校週5日制へ移行しました。 創設時から50年代初期頃までに在学された同窓生のみなさんには、 合併授業があったりする中、週40時間を超える授業が開講され、 (私も3時間連続の授業を担当したことを思い出します) 詰め込み教育だとの批判も受けました。 52年以降それまでの時間制が単位制へ変わり、 それらが若干緩和され、現在は週35単位時間 (卒業単位167以 上)になっています。 専門科目も平成元年前後に在学した方の分と比べてもずいぶん変わっているものと思います。 こうした中で最近の在学生は、大変おとなしく、 あちこちの大学での話として耳にする授業中の私語が多いなどという現象は 本校にはないようです。また、出席率も高く、今年3月卒業生の 半数近い(46%)学生が精・皆勤賞を受賞しました。 8年度の5年生もこれを上回るものと 期待しているところです。 これらは「ゆとり」をもつことのよさの一面を表わすものかもしれません。

 

 平成5年度から、マレーシア、フイリッピン、ブラジル等からの 留学生が編入学しています。現在3年生から 5年生の各学科にあわせて10名が在学中です。 初期の段階においては難しい日本語に加えて専門用語をいかに分かりやすく 教授するかについてずいぶん心配しましたがそれぞれが努力家で、 母国のエリートにふさわしく都城弁にもすぐ馴れて成果をあげ、 本校の国際化に貢献しています。 今年3月一期生4人が 準学士の称号を得て卒業し、3人は豊橋技術大学等へ進学しました。 国際化に関して平成73月、 本校はモンゴル技術大学と学術交流協定を結び、既に、学長、 学校長および教授代表による相互訪問も行われて、 現在、モンゴル技術大学から派遣研究員を電気工学科に迎えて 平原先生(応用物理)中原先生(電気工学科)を中心とする幾人かの教官・技術員とともに 「クリーンエネルギーの応用」をテーマに共同研究が行われています。

 

 在学生諸君の活動については、いろいろな形で援助をお願いしたりしますので ご承知のことと思いますが、文化活動面では、ロボットコンテスト (今年は残念ながら国技館行を果たせませんでしたが)、 プログラミングコンテスト、マテリアルコンテスト、 テクノデザインコンペ等他の高専に負けない成果をあげています。 運動面では、3年 生以下の学生が高校総合体育大会へ 参加できるようになりました。夏の九州大会では昨年度は剣道部が、 今年は、バレーボール部が見事優勝を果たし、全国大会でも健闘して剣道部は準優勝、 バレーボール部は3位の成績を納めました。ラグビー部は、全国大会出場常連校の一つで、 毎年多くの同窓生が神戸に駆けつけて頂いていますが、 今年度も新春12日から 北九州(今年限りの会場とのことです)で開催される全国大会出場権を得て、 6度目の全国制覇を狙っての猛練習が続けられています。

 

 教職員についての最近のこととして、国府先生(工業化学科)が 宮日科学賞(平成6年度)川崎技術員(機械工学科)が、 宮崎ロータリークラブ職業奉仕賞(平成6年度) 菊地先生(保健体育)が、県文化賞(平成7年度) 平原先生が宮日国際交流賞(平成7年度) 皆さんがお世話になった横山さん(運転士)は、交通栄誉緑十字銅章等々 これまでの多くの業績が評価され価値ある賞をそれぞれ受賞されました。 また、江藤校長は、今秋、紫綬褒章を受賞されました。 宮崎県からは初めての受賞者とのことです。 江藤先生は、本校校長に就任の翌年、平成63月には 日本人として3人目という米国化学会農薬研究国際賞をも 受賞されています。こうしたことを皆さんへ報告できることを都城高専の一員として 大変誇りに思います。

 

 高千穂寮出身の方も多いと思います。 現在高千穂寮には360人(内女子67人)が 生活をしています。低学年棟(新寮と呼ばれていた時代の方が多いと思います)は 廊下をはさんで南北それぞれが2人部屋に改築 (平成23年)され、 電話も完備されました。行事については、寮祭における「樽みこしづくり」がなくなり、 11月上旬の市の祭に高千穂寮として加わっています。 夜間行軍は、耐寒歩行、夜間ハイクと呼称とコースを変えながら継続されています。 そして今年は、4年寮生が各学科毎に一つのテーマの下、 かなりな時間をかけて共同研究を行い、 大講義室を満員にする聴衆を集めて発表会を行いました。 校長、学科主任、学生代表を審査員としその優劣を競いました。 私も審査員の一人とし加わりましたが、4学科ともそれぞれの専門を 活かし、ものづくりに深い関心をもった相当なレベルのもので、 指導した5年生、相当な時間を費やした4年生、 熱心な聴衆として加わった低学年寮生をたいへん頼もしく感じました。 食堂が外部委託(昭和60年度)となり、軽食堂は姿を消し、 4人部屋がなくなり、 女子寮生が増え(全学的には20%が女子学生)留学生が全員入寮 (平成5年~)するなど寮の生活は以前とは同じではなくなっています。

 

 本校の卒業生も56人に一人は 進学(全国的には4人に1人が進学=平成7年 度卒業時統計、 高専専攻科の設置校が増えるに従い進学者の数はまだ増えていくものと考えます。) するようになり、以前とは大きな変化で、創設期に在学された方には高専が分かりにくい学校に 変わったように思えることでしょう。 最近の科学技術分野の急速な変化に対応していくのは大変困難な状況になっていますが、 15歳からの専門教育・実践的な技術者の育成を 使命としていることに変わりはありません。 ただ、高専はまだ恵まれているとはいうものの最近は、 就職先の選択幅が狭くなっていますし、 校外実習のための場として4年生を受け入れて頂くことさえ 容易ではなくなった学科もあります。 こうした中で、在学生が気力を失い、初志を持続することができなくなるケースもあるようです。 さらに、中学生の絶対数が減少する一方には、社会全体の大学志向があり、 中学生に対する高専のPR活 動も年々困難になっています。 こうした中、本校卒業生として順序不同ですが、 須田量哉(建築学科卒)=学生主事、樋渡幸次(電気工学科卒)=本校電算機センター副長、 中村博文(電気工学科卒)、森茂龍一(工業化学科卒)ともに内・外地留学中、 佐藤浅次(機械工学科卒)=ロボット制作指導他数名が本校教官として大活躍され 後輩諸君の目標となっていますが、在学生に対してはもちろん、 こうした状況における中学生に対して、豪華客船「飛鳥」の製造に、 花と緑博や長崎旅博の照明部門に、○○ビルの設計に、○○プロゼクトチームの責任者に、 本校卒業生がかかわった、設計した、そのチーフを勤めたという具体的な伝達ができることが大きな励みになり、 また目標になるものと思っています。 どうか同窓生の皆さんのそれぞれの部署での活躍状況や、在学生、高専志願者の目標となる格好のニュースを 何らかの方法で都城高専に伝えて頂ければと強く感じています。 最後になりましたが、同窓生の皆様方の今後のご活躍をお祈りして 都城高専からの近況報告を終と致します。(本稿は平成8年末に書かれました。)

 

世代も学科も異なる同窓生が交流し情報を交換することは、 極めて稀なこと。 深山会員に期待する

第五代校長 篠塚脩

 

去る1026日、 第4回関東地区同窓会が東京都千代田区で開催され、 関東在住の深山会員約40名が参集した。

 当日は母校の体育大会挙行の日と重なったため、下山会長も学校側からも出席者はなく、 前会長の蓬原(ふつはら)宮崎県県会議員がわざわざ上京され、宮崎県東京事務所から次長、 課長がお見えになった。

 このような会合では、顔見知りどうしだけの懇談に陥りがちであるが、 賢明な幹事の計らいにより、開会中3回もテーブルの移動が指示され、 互いに多くの同窓生と接触することができた。

 

 昭和39年の第1回生から 平成2年の第27回生まで、 世代も学科も異なる同窓生が交流し、情報を交換することは、極めて稀なことであり、 大変に有意義であった。

 各分野に従事する同窓諸君の健闘ぶりや、希望、悩み、後輩へのアドバイスなどを聞き、 頼もしく思い、今後いっそうの活躍を願う気持ちでいっぱいであった。

 バブル経済がはじけたあとの、不況にさらされている企業での苦闘の様子や、 研究成果の喜びなど、さまざまである。

 

 そして底流にある共通の問題は、技術社会に於ける高専卒業生の数の少なさである。

 ご承知のとおり、我が国の学校教育制度は、 昭和22年以来6334制の 単線型であり、現在もなお、その基本形態は変わってはいない。

 学校教育法第1条の学校(小・中・高・大学・高専・盲・聾・養・幼)において、 高専だけが例外的な5カ年一貫の高等教育機関である。

 昭和12年の日中戦争から昭和20年の 敗戦まで、8年間の戦争で国力の大半を消耗し、 完膚なきまでに叩きのめされた敗戦の痛手は、容易に回復できるものではなかった。

 荒廃した国土を復興し、より経済的な飛躍を図るため、 昭和35年池田内閣によって所得倍増計画が策定され、 高度の工業国家を建設し、付加価値の高い工業製品を海外に輸出する政策がとられた。

 産業構造の高度化、科学技術の進歩に対応して、 技術者の量的不足と質的向上が問題となり、 新たに工業教育を主体とする高等専門学校の創設が必要となったのである。

 爾来30余年を経たが、 高専卒業生は立派に実践技術者の任務を遂行し、高い評価を得ている。

 

 しかしながら、高専は少人数の技術教育のため、 教育に多大の経費を要することもあって、当初7校あった私立は現在3校に減少し、 国立高専54校は昭和50年以来増設されず、 わずかに公立高専が平成3年に1校新設 されて5校となったのみで、工業社会では少数派である。

 工業は科学と技術が相俟って進歩し、発展するものであって、 日本工業の特質は高度の技術力であり、それにより優れた工業製品を生み出し、 世界第二の経済大国にまで発展した。

 

 しかし、現在アジア諸国の追い上げはすさまじく、かつての日本を見るようであり、 現に母校にも留学生が学んでいる。

 たゆまざる研鑽は技術者の宿命であり、この事が少数派ではあるが精鋭となり得る。 体系的、系統的な実力を身につけることにより、未経験の分野にあっても、 対応は十分可能である。

 

 都城在住の同窓生は、蓬原県議に続く郷土の政治家として、 明年の都城市議選挙に下山会長を擁立しようとしている。

 深山会員の積極的な支援をお願いする次第である。

(みやま5号 1997年,平成97月より)

 

学舎」一覧
関東深山会の皆様へ(高山義邦)    2003/09/15
世代も学科も異なる同窓生が交流し、情報を交換することは、
極めて稀なこと。 深山会員に期待する(篠塚脩)    2003/09/15
高専の行く道 ― 思い出を通して ― (疋田啓佑)    2003/07/26


概要 | プライバシーポリシー | Cookie ポリシー | サイトマップ
Copyright©Miyakonojo-Kosen, National College of Technology Tokyo Alumni Branch "Kanto-Miyamakai"